瀬田の唐橋
瀬田唐橋(大橋)
基本情報
国 日本
所在地滋賀県大津市唐橋町-瀬田1丁目
交差物件瀬田川
用途道路橋
路線名滋賀県道2号大津能登川長浜線
着工1974年(昭和49年)
竣工1979年(昭和54年)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度58分23秒 東経135度54分22秒 / 北緯34.97306度 東経135.90611度 / 34.97306; 135.90611
瀬田の唐橋(せたのからはし、瀬田唐橋〈せたからはし〉[1])は、滋賀県大津市瀬田-唐橋町の瀬田川に架かる橋である[2]。全長223.7メートル[3](大橋約172 m、小橋約52 m[2])で、滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。2015年時点での調査では平日1日あたり1万1955台の交通量がある[4]。
京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三大橋[5](日本三名橋[6]・日本三古橋[7])の1つとされてきた。また、近江八景の1つ「瀬田の夕照(勢田夕照)」として知られる[8]。1986年(昭和61年)8月10日の道の日には、旧・建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている[9]。 瀬田の唐橋は歴史上、さまざまに表記・呼称されてきた。瀬田橋や勢多橋[2]、勢多大橋[10]のほか、勢多唐橋とも記される。また、瀬田の長橋とも称された[2]。 かつて架けられた橋は、丸木舟を横に何艘も並べ、フジの木を利用し、その蔓(つる)を絡めた橋で「搦橋(からみばし)」とも称された。この「からみ橋」から「から橋」に転訛し、また、架け替えられるなかで、中国や朝鮮半島の様式を模した唐様が取り入れられたことにより、唐橋のほかに辛橋、韓橋とも記された[11][12]。辛橋については辛労して架橋した説もある[13]。そのほかにもヤナギの木のように流麗であったことから別名として「青柳橋」とも呼ばれた[2]。 東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。1889年(明治22年)まで、瀬田川に架かる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝かつ京都防衛上の重要地であり、古来「唐橋を制する者は天下を制す」といわれた[2][6]。唐橋を舞台として繰り広げられた壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、橋は昔からさまざまな戦乱に巡り合ってきた[6]。そのため、何度も焼き落されたとされるが、その度に当時の浅瀬の位置に橋が架けられた[14]。また、『日本書紀』など数多くの文献にこの地が登場する[10]。 201年(神功皇后摂政元年)、香坂皇子と忍熊皇子が反乱。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田の渡しで入水して自害したという(『日本書紀』巻第9 気長足姫尊 神功皇后)。このことから神功皇后の時代には既に建造されていたともいわれているるが[6]、この時代はまだ渡し舟で瀬田川を渡っていたともされる[15]。 古代の橋が架けられた年代は不詳であるが、近江大津宮遷都(667年〈天智天皇6年〉)の時代に架橋されたと考えられる[16]。瀬田川の浚渫事業により、1988年(昭和63年)、現在の橋より約80メートル南(下流)で橋脚の基礎が発見された[17]。橋の幅は7-9メートル、長さ250メートルと推定される[7][17]。発見された2基の橋脚の基礎構造は、舟形の長六角形をしており、韓国の慶州市で発掘された新羅時代
名称
歴史と伝承
古代
壬申の乱では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板を外して大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ(『日本書紀』巻第28 天渟中原瀛真人天皇 天武天皇 上)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。